2011/07/31

「許せるか、許せないか」はどう判断するか (2)

(1のつづき)


あることを目の当たりにしたときに、それを許せるか許せないかという判断は、しばしば正義感が強いかどうか、という人柄と結びつけて論じられます。


たとえば花見に行ったときに、桜の花があまりにも綺麗だったもので、枝を折って持って帰ろうとした人がいるとしましょう。
それを見た自分の友人が、それはいいアイデアだと言って、自分たちもやろうと言い出したとしたら、あなたはどういう態度で臨めばいいでしょうか。

もしこれがいけないことだと思って、たしなめようと理由を探したとすると、こんなふうな言い方になるかもしれません。
「同じことを他の人が真似したら、どうなるか考えてみなさい。これだけの数の人間が、みな一枝ずつ持って行ってしまったとしたら、この公園の桜の木はほとんどの枝を失って枯れてしまうではないですか。」

この意見はそれなりの説得力を持っているように聞こえますが、すこしつっこんで考えてみると、「たくさんの人が同じことをし始めると困る」というのは、やってはいけないことの理由の焦点が「数」にあるかのようにも聞こえてきます。
ところがこれは、やってはいけないと言いたいがために理由を探したところ、こういう説明にならざるを得なかったに過ぎず、本当のところは、ひとりでも、誰も見ていなくてもやってはいけないのだ、と言いたかったわけですね。

かといって、法律や看板に「〜べからず」と書かれているからダメなのだと説明することになると、「ダメだと言われていないことならなにをやってもいいんだな」などという安直な反論を許してしまうことにもなりそうです。

そうなると、自分の内面にあった「これは許せない!」という気持ちが、結局のところルールや決まりごとといった外部に依存しているにすぎないもののようにも感じられてきて、自分の感じ方は主体性を欠いているにすぎないのでは、ということさえ思えてくるわけです。

◆◆◆

このように、自分が自分自身の内から発せられていると感じられているところの意志というものが、突き詰めれば突き詰めるほどに外部からの影響や社会性とは切っても切り離せない関係にあることが自覚されるのです。
ここを「あれかこれか」という考え方で論じることになると、人間という個人はあくまでも自由な自分の意志によって行動するのだという個人主義か、人間というものは実体としては個別の個人でありながらもその行動はすべて外部からの影響の反射によるものにすぎないのであるという全体主義のどちらか、という結論になってしまいます。

ところが実のところ、わたしたちは幼少の頃から両親に言われてきたところの、「〜しなさい」、「〜してはいけません」ということばが、わたしたちの意志のなかに刻み込まれたというよりも、そういった働きかけの繰り返しが意志そのものを創り上げてきた、ということなのです。

鋭い読者のなかには、ここでの「〜しなさい」、「〜してはいけません」というのはどこから出てきた発想なのか、と訝しく思われる方もおられるでしょうが、結論から言うならば、これは「人間として」という尺度に照らして導きだされてきたところの、「〜しなさい」、「〜してはいけません」という規範です。

それでも、それを言うならば、「人間として」という肝心の「人間」とは何かを特定できていなければならないではないかという反駁には、「人間」というのは、歴史的に生成されてきたところの人間観である、と、とりあえず形式的なところを表明しておきます。

ここでの問題は、対象化された観念のひとつである規範のあり方と、自由意志とのあいだに矛盾が起こっていることに由来しています。
形而上学的な論理では、矛盾を統一して考えることはできませんから、ここもやはり、現実がもつ立体的な構造に合わせて、弁証法的な論理をもって考えを進めてゆく必要があります。

◆◆◆

ところで、こういう形式的な説明だけでは、今回例に挙げた学生さんの思い悩みというものは解決したことにはなりません。

ここまででアドバイスできるのは、「あなたの許せないという気持ちは、あなたがこれまでに受け入れてきたところの規範によって生成されてきたんだよ」ということでしかありませんから、こんなことを言っても、本人はなにも納得できはしないでしょう。

形式的な説明は、現実から抽象されてきたものであるとはいえ、現実とはかけ離れたところにあるものですから、本人に納得してもらうためには、抽象と具体とを結びつけるところの、表象段階の説明を使って、当人の頭の中にうまくイメージを作り上げてもらわねばなりません。

それを、以下で考えていきましょう。


(3につづく)

0 件のコメント:

コメントを投稿