2011/07/15

はじめはどうして肝心なのか (3):子供と向きあうための弁証法

※今回の記事で、弁証法の3つの法則にはすべて触れてきたことになりますが、日常生活でそれぞれどの法則が働いているかを見つけることをとおして、最終的には、法則同士のかかわりあい方をアタマの中にイメージできるようになるのと直接に、3法則が一体となって弁証法がひとつの像として結ばれるようになれば、基礎的な理解は終えたと思って良いでしょう。
ヒントとしては、3つの法則は、まず一般にはなじむ機会がないほどに抽象度が高いため、たとえば<相互浸透>について、今回は「人が人と似てくる」ことだけを挙げましたが、ほかにも、「夜空が暗いからこそ月が明るく見える」、「死がなければ生もまたありえない」、などということも同じ法則として挙げられることを知っておいてください。
柔軟に考えてみて、わからなければどんどん質問してください。

(2のつづき)


◆量質転化◆

さて、その柔軟であるはずの子供の頭が、つまり認識のあり方が、どのように整えられてゆくか、そうしてどのように土台として定着してゆくかというところに着目してみよう。

そのために必要な観点は、一言で言えば「過程」に眼を向けるということであり、毎日毎日、毎瞬毎瞬の積み重ねが、あるときひとつの質的な結果となって現れるという<量質転化>に着目する、ということである。

真面目な努力家が生まれながらの天才を追い抜かしてゆくという物語は枚挙にいとまがないし、ついこの前まで喃語まじりだった子供はいつのまにか生意気になっている。
また後進に対して「なぜこんなこともできないのか!?」と叱りつける連中を、わたしたちはよく目にするものである。

そのようなわたしたちの経験は、「継続は力なり」、「涓滴岩を穿つ」、「千里の道も一歩から」ということわざを明確に裏付けてはいるけれども、そのもうひとつの側面として、「すでに力となってしまった能力が、どのような継続(過程)によって生成されてきたのか」は、自覚していなければ意識されにくい、ということが挙げられる。
ピラミッドは見たところ、それを作る労力は現代人の想像をはるかに超えていたために、宇宙人のせいにする学者もいるほどであった。「バッと来てガッと打つ」と教えれば野球がうまくなるのなら、誰でも野球ができるはずである。

ところが、ピラミッドは紛れもない人の手によるものであるし、名選手と名監督はまったく異なる才能なのである。専門家でもそういったことがわからなくなるのは、どちらも「過程」に眼を向けることがとても難しいからである。



子育てについて考えてみれば、すでに育ちきってしまった大人が、現時点での自分が当たり前だと思っているやり方、つまり大人のやり方を的外れに子供にまで押し付けるという失敗をしがちなのは、「物心つくまでに周囲の大人が自分のことをどのように創り上げてきたのか」ということが、意識的に特別な方法で努力しなければ、どうしてもわからないからである。

これは、物心がついていなければ自分の育ち方を自省的に見ることができないにもかかわらず、その肝心の物心が育ちつつあるものでしかないゆえに、思い出そうと努力すればなんとかなる問題ではないという、原理的につきまとう困難があるからである。

であるから、大人が自分の育ってきた過程を思い返して反省したり、それを自分の子供の育て方に役立てようとするときには、「自分はこれがいいと思う」という当て推量に頼ってはいけないのであって、あくまでも子育ての勉強が必要なのであり、そのひとつは、「追体験」と呼ばれるものであるということになる。

それというのは、大人に育ったのと直接にほぼ発展し終えた現時点での認識でもって、他の子供の置かれた環境を見ながらそれを観念的に(=アタマの中で自分のことのように)追体験してみることをとおして、「ああ、自分もこういったふうに育てられてきたのだな」と、他人の姿を、自分のアタマのなかのもう一人として立ててみる、ということだ。


◆相互浸透◆

そうすることで、自分がまともに育ってきたことは、決して偶然や自分の独力によるものなのではなくて、周囲の人間たちの関わりによってはじめて、「人間として育てられてきてはじめて、人間となってきたのだな」、とわかってくる。

おぎゃあと生まれてなんにもわからず泣きっぱなしだったところを、お母さんの胸に抱かれて泣き止むことをしだいに覚えてゆくのは、ロボットに育てられているからではない。
笑えば微笑み返してくれる心身とものぬくもりある母親があってこそであり、また母親にとっては、子供がいなければ笑う理由もないものである。

一人で動けるようになったあとも、四つん這いで駆け出してハトの首根っこに噛み付くのでないのは、狼に育てられたわけではないからである。
物心ついたあと、友人関係が当人の人格形成を大きく左右するのも、赤の他人だったはずの男女が夫婦になると口癖も笑い方も歩く歩幅も似てくるのも、これらとおなじ、あるものが相手へ、相手があるものへと働きかけ合うという<対立物の相互浸透>のあり方である。



わたしたち大人は、すでに浸透しきって大人になっているから、「トイレ掃除をした雑巾で顔を拭いたりしない」、「お風呂のお湯を止めるときには赤い方から」、などといった習慣を、努力して意識しておかなくともこなすことができる。
動物とは質的に異なる認識をもつ人間にあっては、「便器の前に立つと尿意を催す」、「停止中のエスカレーターを歩くと違和感がある」といったふうに、感覚そのものにすら、人間らしさが浸透しているのである。

注意してほしい、人間らしさが浸透しているのは、「精神」のみならず、「物質」である「感覚」にまで、である!

人間としての土台がどのように創られてゆくのかという「過程」に眼を向け始め、そのはじまりはどこにあったのか、それらはどう積み上げられてきたのかと遡って考えてみると、砂の上に造られた城は、いかに荘厳で強固な佇まいを構えていたとしても、少しの揺れでろくも崩れ去ることもわかってくる。

物心ついてから、どれほどに大切な事柄を教わったとしても、それを受け止める土台がないのだとしたら、せっかくの力を間違った方向に使うことにもなりかねないのである。
幼少の頃からの丸覚え式受験勉強が、子供のアタマに、つまり人間らしさの土台に、どのような影響を与えるのかを、いまいちど考えてみてもらいたい。



習い事でも仕事でも、新しくものごとを学ぶときに、わたしたちはすでにある程度の判断能力が備わっているから、自分の力で人格・技ともに優れた先生は誰かと探し、その人に師事することができるけれども、子供たちは、それを選ぶ能力すら培ってゆく途上にあるのだ、という恐ろしさがある。

あらゆる分野でも、同様のことを強調している人間を見つけるのは難しいことではない。「すべて端初は困難である。――ということはどの学問にも当てはまる。」(マルクス『資本論』)のだし、大衆の経験も、「三つ子の魂百まで」、「雀百まで踊り忘れず」と教えてくれる。

「何事もはじめが肝心」だとよくいわれるのは、人間ならば人間の中での<相互浸透>的な<量質転化>によって人間らしく育てられてくるからなのであり、はじめに学んだことが土台となるがゆえに、「あと」よりも、土台を作る「はじめ」のほうが、はるかに肝心なのだ、このような内実をもっているわけである。


(了)

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