2011/07/25

MacOS X Lion (2):前を見据える者はどんな橋を渡ってゆくか

(1のつづき)


わたしは、同社が自社ロゴに虹色のアップルマークを使っていた頃からいままで、興味を持ってAppleのやり方を見ていたけれども、そうして十数年にわたって見てくると、しだいに同社の、ものごとの運びかた、というものが透けて見えてくるような思いがさせられたものである。

迷走しはじめた同社の経営をめぐって混乱が起こったのち、創業者が復帰したあとのこと、
それまでの虹色アップルマークを単色のアップルマークへと改訂したこと、
それまで使ってきた端子をiMacのリリースと共に単一規格に置き換えたこと、
最近では新モデルからDVDドライブをバッサリと切り捨てたこと、などなどをわたしは見てきた。

前々からそれほど明確に意識していたわけではなかったが、こういった、ある個人やある組織のふるまいを見ていると、その主体がどういう考え方をし、どのような思想を持っているかがだんだんわかってくることがある。

整理された言い方をすれば、ある主体が表現したものを対象として受け取り続けると、自分の頭の中にその表象が描かれてくるのと同時に、その表現者「らしさ」がわかってくる、ということである。

こうやって生成されてくる「〜らしさ」によって照らしてみたときに、わたしたちはあるものをそれと比べた上で、「今回はいかにも〜らしい出来栄えになったな」、「これは〜らしくないから、きっと贋作だろう」などと判断することができる。

◆◆◆

Appleの場合に「Appleらしさ」といえば、これは「ものごとをゼロから考える」ことだと思う。

「イチから」ではなく「ゼロから」と言ったのは、自分がすでに創り上げてきたもののうえに胡坐をかかない、ということをふくめて言い表そうと思ったときに、「すでにあるものをいったん壊してゼロから創り上げなおす」といったほうが適切であると思うからだ。

自分たちの創り上げてきたものはもちろん、ライバルメーカーのやっていること、顧客からの要望を聞きはするけれども、そういった過去の出来事にとらわれずに、常に前のめりでなにかを見据えている、わたしにとって同社は、そんな存在である。

◆◆◆

あまり個別の知識を披露しても読者にはつまらないから、妙な横文字をたくさんならべたくはないのだけれど、iPod、という名前ならばだいたいの読者の方は聞いたことがあるだろう。

発売当初はまるで注目されなかったこの音楽プレーヤーは、FireWireという端子を使って、母艦となるコンピュータと、データの転送や充電を行っていた。

この端子は当時、その開発の一部や命名などをAppleが担当しており、事実上、Apple公認の規格であったから、それを採用することは、そのときの事情を鑑みれば理にかなったことであった。

ところが、初代iPodの発売から2年を待たずして投入された第3世代では、本体側のFireWireの代わりに、新しい端子を採用したのである。
ユーザーにとっては、このことによって、「初代のときに使っていた接続ケーブルを第3世代では使えない」という事態になり、これはiPodが誰にも注目されていなかった初代からのユーザーにとっては、少なからぬ同様をもたらしたものである。

それから5年経った頃にリリースされたiPhoneなどは、PCとの接続にFireWireを採用せず、代わりに、事実上の標準規格であるUSB 2.0という規格を採用した。
これは、一時はFireWireと規格争いしていたところの、いわば敵対的な規格であった。

◆◆◆

AppleがFireWireを推すからということで、それにあわせて周辺機器を買い揃えたユーザーにとっては、これはいわば、はしごを外されたような出来事であった。

ところが、冒頭でも少し述べたように、Appleという会社は、いかに自社が手塩にかけて育ててきた規格やソフトウェアであっても、それが時代にそぐわないと見れば、躊躇なくそれらをなげうって、新しい時代へと歩みをすすめる会社なのである。

これは単に、「古いから」捨てる、というわけではないが、新しい時代にふさわしいものとの整合性がとれなかったり、そのために余分なコストを強いるときには、まったく遠慮無く足枷を外して歩み続ける。

これを外野から見ていると、「Appleはあれといったら次にはこれだなどという、やりかたが一貫していない企業である」、などという意見が出てくるし、より悪くは、「あれこれと規格を変えることによって、無意味な買い替えを迫る企業である」などといった意見も出されてくる。

とくに、同社のCEOであるスティーブ・ジョブズは、基調講演でのプレゼンテーションが魅力的に映ることもあり、一般の大衆にも存在を知られていることから、その発言が断片的に伝えられることが多いのである。

たとえば、ビデオの再生機能を搭載した他社製音楽プレーヤーに対して、「彼らは違うところを掘っている」との発言のあと、自社のiPodにもビデオ機能を搭載したり、「TVなど誰も見ない」と言ったあとのTV機器の発表など、表面上では矛盾をした発言が目立つようにもとられる。

こういう表面的な見方しかできなければ、彼らが何を見て、何をしようとしているのかがうまく理解できないから、他の多くの企業のように、時流にのせられて漂いながら、「下手な鉄砲数うちゃ当たる」式でヒットを飛ばすというヒットメーカーのような扱いをされがちなのである。

わたしも、自分で稼いだお金を支払って買うべきものを選んでいるひとりの消費者だから、Appleのやり方が性急に過ぎると映ることもあるけれども、それでも、表面上はあっちにいったりこっちにいったりとのジグザグの道を進んでいるように見える場合にも、それが向かうまなざしは一所を見据えているということがあるのだと知っている。

時代の変化は不可避であるから、それにただ乗っていようと、ひとところを見据えていようとも、揺れ動きというものは避けることができない。
前者は、そのときそのときで対応の仕方を臆面も無くころころ変えるけれども、後者とて、時代の流れに合わせるように、ときにはあたらしい時代を作り出すために、同じような振る舞いをしているようにも見えるものなのだ。


(3につづく)

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