2011/07/13

はじめはどうして肝心なのか (1):「クジラは何を食べていますか?」

※この記事は、新しい読者が増えてきたことと、昨日の記事で受験勉強の消極面を書いたことに関連があり、身近な例を正しい考え方で考えてもらうための側面をもっています。(学問の見方を、身近なところから適用してみることの大切さにもふれてあります)
これまでの読者のみなさん、とくに最近の記事が難しすぎる、という人にも再入門・再確認のきっかけになればいいなと思っています。
また以前からお伝えしていることなのですが、新しい読者のみなさんは、当Blogで<括弧書き>されている用語については、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』で学びながら読み進めると、理解が深まります。


表題の問題を問われたら、


「ハイっ先生!オキアミです!」

それが、小学校低学年の模範解答であった。

◆◆◆

あんなに大きな生き物が、あんなに小さな生き物を食べて生きているなんて!
という意味での驚きをともなって、この事実は子供たちの記憶に刻まれるものである。

ここで驚きがあるというのは、子供たちにとっては、自分がお父さんほどには食事をたくさん食べられなかったり、飼い犬がドッグフードを口からこぼしながら食べたり、スズメはパンくずでも食べるのに必死であったりといったような経験を一般化したところに、「生き物は身体にあったものを食べるものである」というおおまかな知識が形成されていることと、クジラの食事のあり方のあいだに矛盾があるからである。

それまで知っていた事柄と、新しく得た知識が矛盾するときに、なぜだろうなぜかしら、と理由を知ろうとするところに、知識が自分のものとして身につくための第一歩がある。

わたしが子供であった頃の先生も、理由を聞きたがる子供たちのまなざしに応えて、「クジラには、外からは見えないけれど口の中にヒゲがあって、海水ごと飲み込んだオキアミだけを濾しとって食べているのですよ」と説明してくれたものであった。

◆◆◆

まわりのみなは、素直に「へぇ〜」と話を聞いたり、表現に引きずられて「口の中にヒゲがあるなんて!」とくすくす笑ったりしていたけれども、齢十つにも満たない私の頭の中には、ある疑問が首をもたげてきていたのである。

「なるほど、ひとつひとつはあんなに小さくても、それだけたくさんのオキアミを食べているから、クジラはあの大きなからだを動かしていてもしんどくないんだな。
それはそうだと思うけれど、そんな小さなオキアミを濾すほどのヒゲなら、引っかかるのはオキアミだけなのだろうか?」

処世術を知らないわたしは、「わからないことはなんでも聞いてください」との言葉を頼りに、そのままの質問を先生にぶつけたのであった。

クジラがオキアミを食べるのはわかりましたが、ヒゲに引っかかった他の魚も食べちゃいませんか?
それとも、クジラはやさしくて、オキアミ以外の魚は逃がしてあげるのでしょうか?、と。

そのときの担任の先生は、後者の疑問については、クジラが人間のいう「やさしさ」を解するものではない、というところまでは知識的に知ってはいたけれども、前者についてはわかりかねたのであろう。

冷水をぶっかけられたような顔のあとに返ってきたのは、
「屁理屈ばっかり言う人は、えらい大人にはなれませんよ!」
という言葉であった。

もうご本人の名前も思い出せないが、いまでも能楽を観に行くと、この時のことを思い出さずにはおれない、そんな経験である。

そのときは、般若のような顔で叱られた、わたしが般若にしてしまった、という事実そのものが堪えたものだけれど、その疑問は、それでもなおアタマの片隅にくすぶり続けていたのであって、やはりココロのほうにも、「納得しないことはどうしても忘れられない」という足あとを刻んでいったのであった。

◆◆◆

その後もそういうやりとりが何回かあって、先生からの扱いが「屁理屈こき」として定着した頃をすぎて、そのあと進級して別の先生から通知簿に「授業中に文句を言わないようにしましょう」と書かれる頃になっても、やっぱり謎は解けなかった。

疑問が氷解したのは中学校の頃、ふと目に留まった新聞記事である。

見出しは、「マグロの漁獲高減少」だかというもので、当時の私にはなぜその記事が目に留まったのか検討もつかず、これはいわゆる運命というものかと、その邂逅に身を震わせるほどの出来事であったのだが、ともかく内容は、こういうものであった。

曰く、「捕鯨の規制で、マグロの漁獲高が目減りしてきた。この方針の是非が問われるところである」。

中学生であったわたしは、新聞記事に使われている難しい漢字を読むだけでもやっとであったが、ここには何か重要なことが書いてあるとの一念で漢字辞典を引っ張り出してきて部首から調べ、その漢字が「クジラ」を指していることを突き止めたあと、とうとうものごとの真相を理解したのであった。

「…やっぱ、クジラってマグロ食べてるやん。しかもけっこう大量だし!」


そのときからわたしは、あらゆるオトナを、「その人がオトナであるという理由『だけ』では」、まるっきり信じなくなった。

やっぱり、矛盾していることは、放っておいちゃダメなんだ。

それが、そのとき自分で掴みとった、世界を照らす灯火であった。

◆◆◆

さて、「クジラにはオキアミを濾すことのできるヒゲがある」という事実を、まずは知識的に受け止めることにしよう。
そうしたときにも、「クジラはオキアミを食べる」ということ自体は、たしかに誤りではないのである。

これは、「日本人は米を食べる」と言うのと同じであるが、それでも、わたしたちは米だけを食べているわけではなくて、パンも食べるしラーメンも食べる。
そのことを踏まえようとするときには、誤解を招かない表現の形に整えて、「日本人は米を主食としている」と言うわけである。

言い換えれば、「日本人は米を食べる」というのは正しいけれども、そこから「日本人は米だけしか食べない」というまでになると、これは誤りだということになる。


ところが、ここでの問題は、そういった知識的な事柄を知っているかどうか、ということにとどまらないのである。

なぜなら、「クジラにはオキアミを濾すことのできるヒゲがある」という条件から、類推できることもあるからだ。

クジラのヒゲはオキアミを濾すことができる。
マグロはオキアミよりも大きい。
よって、クジラのヒゲはマグロも濾すことができる。

これは弁証法でも何でもなく、よくいわれる「アリストテレスは死ぬ」の論証で知られるような形の、ごく一般的な形式論理さえあれば、じゅうぶんに引き出せる範囲のことである。(ただ、あの論証がアリストテレスのものである、というのは誤解だけれども)


今思えばおそらくわたしの担任の先生は、「クジラはオキアミを食べる、クジラはオキアミを食べる」、という知識で、頭がいっぱいになっていたのであろう。
意外なところからの反論は、それを追い詰めるには十分だったのだ。


(2につづく)

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