「ワタシも同じことを考えてたよ!」という人がいる。
ところが、「想像してみた」のと、「本当に実行した」のとでは、天と地ほどの開きがあるものである。
◆◆◆
個人においてこの発言が為される場合には、テスラとエジソンのあいだの電流戦争などの例外をのぞいて先取権がどちらにあるかはうやむやになりがちだから、「自分にも先見の明はあったのだ、お前はそれをやったにすぎぬ」という負け惜しみが強く出たとしてもそれほど目に見える形の結果を示さないけれども、それが会社の場合に、あるところから革新的な製品が出たときには、ライバル企業もその裏側で大量の特許が動いていることを察知しないわけにはいかないから、事実上、ほとんど言い訳の余地が無いのである。
先をゆく者とあとに続くものは、かなり明確に「パクられ」「パクリ」という関係が目に見える。
では、なぜに「同じことを考えていた」のに「実際にはやらなかった」のかといえば、リスクを負うだけの覚悟がなかった、ということに尽きる。
同じ時代をそれなりの姿勢を生きる者にとって、ほとんど同じものを対象として接してきているし、先の時代についてのある程度の必然性というものは、表象として意識されているものである。
地球の裏側の情報が一瞬にして手に入る現代ならいざしらず、人類の歴史においては同時代にまったく独立に、同様の発見がなされるというのは、歴史的な必然性が存在していることを示している。
◆◆◆
それなのにこういった言い訳が出てきてしまうのはなぜだろうか?
「虎穴に入らずんば虎児を得ず」ということわざや、「ハイリスク・ハイリターン」というわかりやすいことばが示しているように、手に入るリターンは、リスクを冒すことによってはじめて手に入るものである。
ところがそこを明確に認識し、覚悟をもって実践したことがなければ、先進的な企業がまるで「運良く」革新的な製品を開発できたかのような解釈をしてしまうのである。
木の根っ子に兎がぶつかるのを待っているような人間や企業はたくさんいるから、そのうちのどれかはなんらの努力をしなくとも転んだ兎を焼いて食うことができるのだが、革新的な存在を、それと同じような単なる強運の持ち主であると見るのは、まったくの誤りである。
◆◆◆
自分のアタマで考えて、誰に何と言われようと先を見据える企業は、周りが到底理解できないほどの危険な橋を渡っているが、それを渡りきったときには大きな見返りがあるというのは、たとえば近年の任天堂が示しているところである。
その名を上げるのは、前回の記事でテレビ業界についてこう書いたことと関連がある。
そういうときには、現在テレビを見ている人がどの番組を見ているのかよりも、「人気のあるはずの番組を見なかった」人が、「なぜ見なかったのか」、「なぜ面白くないと思われているのか」と、その内実につっこんで調べてみなければならない。
これを書いているときに、ではこういう考え方ができているのはどこだろうかと思い返したときに真っ先に出てきた企業が、他ならぬ任天堂であった。
同社というのは、かつて出していた「ゲームキューブ」というゲーム機で、ライバル2社との間にいわゆる性能競争を作り出してしまい、他社の先行優位を覆すことができずに後塵を拝した経験があるのである。
そういったときに、「我々は目指すものを間違っていた」としっかりと自覚し、ライバル会社ではなくてユーザーの方をしっかり見据えたものづくりをしようと考えを改めたところに、リモコン型のインターフェイスを採用した「Wii」という製品が生まれることになった。
いわば、「『いまゲームを好きになっている人間』だけを取り合っていても業界全体としては先細りになるだけであるし、待っているのは死のみである。我々はどんなリスクを冒してでも、『ゲームに見向きもしない人たち』に、いかにゲームをしてもらうか、を考えてゆかねばならない」、と考えたわけである。
"Revolution"というコードネームが指す通り、「異質なゲーム体験をもたらす」ことを念頭に開発されたこのゲーム機が発表された時のメディアの反応は、冷ややかなものであった。
そこでは、「性能競争から脱落した負け犬の遠吠え」という見方が浸透していたが、これはまさに、「性能競争」というイデオロギーに慣れ親しんだメディアの側から出された評価なのである。
◆◆◆
ところが、2世代にわたって続いた「性能競争」の流れをさらに推し進める形で、高性能コンピュータと同等の性能を持つライバル社製品は、販売台数において任天堂にはるかに水を開けられた状態にある。
現在では、任天堂のWiiは、その独特にすぎるインターフェイスをソフトメーカーが生かしきれていないことと、他社製品よりも性能が劣ることによって、ハイビジョンTVが普及しはじめた2010年頃から各種の批判にさらされてきたけれども、わたしはその逆風の中で発表された次世代Wiiを見て、「この会社の目は、まだ死んでいない」という思いを強めたのである。
なぜなら、それが採用しているまた新しいインターフェイスから透けて見える思想性をみたときに、「またもや危ない橋を渡ろうとしている」ことがはっきりとわかったからだ。
これはなにも、「とにかく危ない橋を渡ればなんでもよい」というわけではないことは、ここを読みに来てくださる読者にとってはもはや断り書きをすることが失礼に思えるほどの常識だけれども、頭の働きの悪い会社やメディアがそのような論調でこき下ろすから、少なくない問題が残るのである。
◆◆◆
どんな場合であれ、「新しいことをやる」のはそれだけで、本当に深い、深い溜息がつい出てきてしまうほど、恐ろしい不理解によって足を引っ張られるものだ。
いつのときにも時代の前をゆく者は、その重圧を甘んじて受けながら、自らの力でいつ果てるともしれぬ道程を歩ききらなければならない。
その道は、周囲から見るところによればまさにひとつの狂気そのものに映るのであるが、それは当人が見据えている目標が、たどり着いたときでなければ明らかならしめることのできない、という必然性によって規定されているのである。
当然に、道半ばで諦めることは、狂人として死ぬことを意味する。
ところが目標にたどり着いた暁には、それまで狂人扱いされていた当人の達成とその道程が、衆目にとっても浮き彫りになるとともに、それがもはや辿りつけぬ高みにあると知られることになる。
こういう過程が、危ない橋を渡る、ということのなかにあるのだし、過程を歩ききるという重みを知らぬ者にとっては、生まれつきの天才という形で羨望の対象になるわけである。
◆◆◆
ところで、ここまで言っておいてはしごを外すようにも聞こえるけれども、感性的なことを言えば、わたしは任天堂のものづくりが好きではない。
その製品はあまりにも全年齢向けに作ってあるから、モノとして余分なものを削ぎ落したような静謐さはないし、ソフトウェアを含めた設計思想についても、「あまりに作られすぎている」から、より広い範囲で柔軟に遊んでみたい、使ってみたい向きにとっては、かえって遊び方が限定されるのである。
ではどこなら自分の感性がぴったり合うのかと言われれば、これは米Apple社である。
会社という組織の作ったものからなにかを学ぶ、ということはとても珍しいけれど、自分にとって、この会社は例外的にそういった位置づけの組織だ。
そこが、新しい製品を出した。
前書きが長くなったので、分けましょうか。
(2につづく)
0 件のコメント:
コメントを投稿