2011/07/28

「お勉強」が嫌いな人は資格試験にどう取り組むか (1)

ハウトゥばなしはつまらないのでほとんどしませんが、


学問的にものごとの根っこを抑えておくと、たとえば資格の勉強なども、ずっと効率的に進めることができます。

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資格でも取ろうかと思って大きな本屋さんに行ってみると、ひとつの資格にも数社からの出版物が見つかりますし、同じシリーズの書籍を眺めてみても、数巻からなる構成をとっていることが少なくありません。

参考書、問題集、用語集、過去問などがそれに当たりますが、資格によっては十数冊に及ぶことも少なくありませんから、すべてに目を通すだけでもかなりの労力が必要ですし、もし不合格になったときには次年度もまた同じ出費がかさむのかと思うと資格の取得自体を断念せざるを得なくなる場合もあります。

こういった制限をうまく乗り越えるために、みなさんは、どんな順番で取り組むでしょうか?

義務教育の学習の進め方では多くの場合、先生からの授業をノートを取りながらじっくり聞いたあとに、宿題として出された問題集を解きながら学習を進めていきますから、その類推で言えば、参考書から問題集へと進んでゆくのがよさそうに思えます。

この「お勉強」的な方法は、知識的なまる覚えの習慣が見に付いている人にはそれなりの安心感をもたらしますし、内実への理解はともかくとにかくまる覚えして資格がとれてしまえばそれでよいという場合には、いちおうの効果が得られるものです。

ところが、この場合にはあくまで知識を丸呑みにしているだけに過ぎませんから、それを実際の実務で活かそうとするときには、その間に相応の隔たりを感じることが少なくありません。

そして覚えて使う以前の習得の段階にも問題があり、「お勉強」が大嫌い、という人には、このやり方は使うことが出来ません。
アタマでは資格が必要なことを理解していても、「ここはどうしてなの?なぜなの?」ということが気になるあまりに、過程を飛ばした結論だけを受け入れることを、ココロが拒否することがあるからです。

「勉強が好きだと言えるのは、頭をちゃんと使える時だけだ」、「勉強は嫌いだけれど、頭はそれなりに回るほうだ」というタイプの読者の方は、たしかに覚えがある、と頷いてくれているのではないかと思います。

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それでも、仕事上どうしても資格が必要になることもありますね。

そんなときにも、資格をとれるのはお勉強が好きな人間だけなのでしょうか?
そのことを、人間の認識のあり方を踏まえながらごく簡単に考えてみましょうか。

さきほどの「お勉強」方式は、とにかくひととおりまる覚えした後に、問題集に取り組んで応用問題を解けるようになる、という学習過程を持っていました。

ところが、まる覚えがどうしてもやれない場合には、そのやり方を採用しにくいのですから、別の方法を考えてゆかねばなりません。

わたしは学生のころなどは、まさにそういった気質であったので、短期的な試験の結果などにまるで興味を持てず、「この勉強が自分の人生にとって必要だ」と心の底から納得できるまで、何もしませんでした。

ほかの成績優秀な人たちは、先生が指さした方向がどれほどの真っ暗闇でも、やれと言われているからとか、みんなが行っているから乗り遅れまい、という気持ちだけ歩みを進められていたようですが、わたしにとっては、真っ暗闇の中どこへ向かってゆくのかもわからないまま、崖から転げ落ちてそれまでの過程が無に帰するかもしれないような道程を歩いてゆくなどは、狂気の沙汰でしかなかったからです。

そんな博打に時間を使うなら、映画を観たり川辺を散歩している方が、人生にとってはずっと堅実な前進になると思っていました。

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その代わりに、授業を受け持ってくださる先生のことを、とてもよく見ました。

授業中に発せられる知識の裏側に、明確な根拠を持っておられるどうかを見出そうとしました。
それが学問だけではなくて人生観にまで通った一本の筋として確立されているかを、見ようとしました。

そういう視点から、この人は信頼がおける、自分の人生を預けるにふさわしい人物だと思えたときには、「この勉強をすれば、いつかはこんな人になれるんだ」と、心から安心して、何も言われなくとも自ら進んで勉学に取り組めたものです。

授業中に取ったノートの隅には人生の先達の失敗談や人生訓が冗談交じりで書かれてあり、直接的に受け止めて見直すだけでもくすくす笑えてくるほどの楽しさがあるのに加えて、その裏側からは、失敗から学んでこられたからこそ今では笑い飛ばせるほどの謙虚でおおらかな人格を持ち得たのだ、という人間への信頼を感じ取っていたものです。

そんなときに、どこかに悪い点数をとる理由があるでしょうか?
高校3年間の半分を人生についての煩悶のうちに過ごしたのち、残りは主席で過ごしました。
わたしはアタマが良かったのではなくて、ただ授業に感動していたからこその、好きこそ物の上手なれ、だと思っています。
授業を受けるだけで主席になれるのに、塾などに行く必要があるでしょうか。

わたしがこのときに見出したのは、「強い動機」が備わっていれば、勉強などというものは、「誰かにやらされるもの」ではなくて、「自分で進んでやりたくてたまらないもの」でしかないのだ、ということでした。

いまのわたしがここでの気づきを言い換えるなら、「ある能力の習得には、強い問題意識が欠かせない」ということです。

わたしたちが子供の頃には、なにもないところに両親の影響がどんどん浸透してゆき、それが知らず知らずのうちに物心として生成されてゆくために、そこでの心身ともの努力は努力とも思えないほどのものなのですが、それとは違ってすでにそれなりの物心がついてしまった人間の場合には、「好きなこと、好きではないこと」、「やりたいこと、やりたくないこと」の差が、まるで超えられない壁として立ちはだかっているようにも思えます。

自分のやることは「好きだからする」のであって、「嫌いだからやる」のではない、ということになると、嫌いなことは未来永劫嫌いなままのようにも思えてきます。

ところで、「嫌いなこと」は、この先もずっと、「好きなこと」にはならないのでしょうか?


(2につづく)

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